創作関係

「プリンセスと魔法のキス」の感想

ネタバレ有りです。

 

最初に総論で言うと、「すごく良く出来たアニメーション映画。感動できるし万人にお勧めできる」作品だと思います。

amazonのレビューも高いし、宇多丸さんのシネマハスラーでも高評価。

実際に見ている間もかなり感動して鼻をかみまくっていました。

 

しかし、終わってみるとどうにもちょこちょこ引っかかってしまうところがある。

そういうところをスルーできればいいのですが、そういうところが気になってしまう人なので、いろいろ愚痴ってみたいと思います。

 

最初に「リアリティライン」について

まず、この作品、主人公がお金を稼ぐために努力しているところから始まるため、大人が見るといきなりリアリティラインが上がってしまいます。

そもそも、従来の作品スタイルを相対化したりしているため、なおさらこっちの見る目も厳しくなってしまいます。

そういう厳しい目で見ればどんな作品も愚痴だらけになってしまいます。

だから、このリアリティラインを上げてしまう構造はちょっと良くない気がします。

それとも制作者は「そこまでリアリティラインを上げても大丈夫」と確信して作ったのでしょうか。

 

うーん、それにしても突っ込みどころがあるきがします。

 

 

素晴らしいところ

とりあえず、よかったところをリストアップ

・アニメーションはめちゃくちゃ良く出来ているので、文句つけようが無い。

・ミュージカルが楽しい

・音楽もいい感じ

・感情のコントロールがうまくて、見ている間はすごく楽しめる

・金持ちの友達が悪役っぽく描写されなくてよかった

・カエルでも演技能力があって普通に楽しめる

・悪役がうさんくさくて最高。影が独立して動くのも魔術的で格好いい。あの悪役がうさんくさく振る舞うところをもってみたいくらい。

 

気になるところ

 

・顔のデザイン

主人公の顔のデザインがどうもノイズになってしまいました。

多分「絶世の美女ではないけれどもそこそこ美人の黒人」という描き方だと思うのですが、そのせいで「超美人に描きたいわけじゃない」「不細工に描きたいわけでもない」「無個性に描きたいわけでもない」となにかはっきりしない顔になってる気がしましたねー。

正直、自分としてはもっとデフォルメしてただの美人とかに描いて貰った方が、物語に素直に入り込めたと思います。

シーンによってそこそこ美人に見えたり、不細工に見えたり、印象が安定しなかったんです。

まぁ、その辺の加減がリアルといえばリアルなんですけど、どうも気になって仕方がなかった……

 

・恋愛

なんで王子が主人公に惹かれるようになったのかよくわかりません。

かなり仲良くなったのはわかるけど、そこまで覚悟を決めるに至ったという説得力がいまいち……

といっても、見ているときはなんとなく納得しちゃうんだけど、もうちょっと惚れるに至った1シーンが欲しかったですねぇ。

 

・ママオーディ

自分はこういう「普通の人と違う視点と知識を持つ年寄りキャラ」が好きなので、最初に見たときはすごくわくわくしました。

でも、話が終わってから見返すと「あれ?」って感じです。

実はピンボケなメッセージを言っていて、ミュージックのノリでごまかしている……と感じてしまいました。

王子には「我慢が必要」と言っていますが、その後に我慢して何かを変えた描写がない気がするので、なにかずれてる気がします。

唐突に「愛」というセリフが出てきてなんかうまく飲み込めませんでした。

なんか、ピンボケ。

もっとこの人の言ったセリフで物語が変わるようにして欲しかった。

確かにその後に王子は変わるけど、そういう展開にするならこのキャラが王子に諭すセリフはもっと違う物な気がする。

 

・エンディング

一番引っかかったのがこれです。

お姫様にもなってレストランも営業するって無理じゃないですか?

アレをまともに見ると、一日とか一週間とか期間限定でレストランを営業する遊びをして、その後は姫業務に戻るのかなと思ってしまう……。

ここらへんがリアリティラインの問題で、両方が成立する世界だよってみせてくれれば特に問題なかったんですけどね。

それとも、王子は勘当されたままで王族ではないってこと? そこらへんがよくわからない。

「王族だけど継承権がないから自由」ってことなら納得するんだけど、それもちゃんと作中で見せて貰わないとそう思えない。

どうしても「この両立は無理だろ……」としか思えなかった。

 

 

 

 

■その他細かい突っ込み

・日本語の文字がMSゴシックみたいなフォントばかりで酷い。ちゃんと手書きの文字に置き換えて欲しい。

・なんで漁師がカエルなんか追いかけるんだろう。多分、突っ込んでもしょうがない部分だけど。

・犬がしゃべった意味は? なんか回収されてない気がする。

ブラック・ミラーにツッコミを入れていく(宇宙船カリスター号etc)

ネットフリックスでやっているブラックミラー。

SF的な話が並んでいてすごくおもしろいのだが、基本的に「ワンアイディア」で出来ていて世界観があまり考慮されていない。

(こんな技術があれば世界がこう変わっているだろう。という考察がなされていない)

そのため、見ているとどうしてもツッコミポイントが思い浮かんで、吐き出さないと気がすまない。

ということで、ここに吐き出そうと思う。

喋りまくってYoutubeにでもあげようかとも思ったけど、テンション的にイマイチだったので、やっぱり文章で。

 

シーズン4-1「宇宙船カリスター号」

最初に見た話。

仮想世界の住人が努力する展開が非常におもしろくて興奮したのだけれども、やっぱりツッコミどころがありすぎる。

 

・DNAから大人は作れません!!

インフィニティというVRを作ったプログラマーが会社のメンバーのDNAを採取して、メンバーのコピーを自分のコンピュータの中に再現している。

が、DNAを採取したって、同じ身体的特徴の人間を再現できても、記憶が再現できるわけじゃないんだぜ!?

「ラブやん」を一気に読んだ

なんか久しぶりにマンガを楽しんだ気がする……

創作に心が向いているときって案外他の作品を楽しめないんだけど、心がフリーな時に読むと「あれ物語ってこんなに面白かったんだ」って驚くほど楽しめる時がある。

それが当たった。

あーたのしかったーーーー!

 

とくに最終巻では涙が出てしまった……

まさか最後に涙を流すとは思わなかった……

 

とりあえず面白かった所を列挙。

 

・コメディであることと、センスが自分に向いていたこと

 

・ド頭で犯罪的な恋愛を実現することが目的になること。趣味で書いている人でも18禁同人以外でこういうのずばり書ける人少ないんじゃないだろうか。趣味作品同じことやるにも「異世界」とかにして薄めちゃう人が多いと思う。「普通にこの世界の現代の日常の設定でそれやっちゃうのか!!」と驚けるほどド直球で危ない設定。だって一般向け商業作品なんだからそれ叶えたらアウトだしね。最初に驚きがあって引き込まれる。大抵の作品は「ああ、この感じね」って思うだけなんだけど、「ええええ!?」と驚きました。

 

・「お前ら早くとっつけ!」というヤキモキを味わえる所。なぜかヤキモキしているのがすごく楽しいんだよね。そして最後にとっついたところですごく満足できる。他人の恋路なのになんでこんなにおもしろいんだろうか。

 

・遠慮していない描写。オナホだのなんだのしょっぱなからエロネタ全開。まぁ、正直「そういうネタばっかやりすぎ…」と思うところはあるけど、ひたすら攻めてるのが感じられる。いろいろオブラートにくるみまくっている作品は多いので、こういう風にあけっぴろげに来られるとなんか「す、すげー」と思っちゃったりする。だいたいコメディを書く人って、シモネタは上手く避ける人が多いから。ただ、途中から「ネタ切れでこれしか書くこと無いのかな……?」感は伝わってくるけど。

 

 

次、作者のことを想像して楽しんでいる所。

 

・当初作者が想定していないところに物語が行き着く所。最初の描き方からして、ラブやんは女の子の姿をしたマスコットキャラであって、恋愛対象ではない。まぁコメディだからね。それでも主人公とからませまくっていくとだんだんとそうも言っていられなくなっていくという……。最後の展開なんて最初の頃の作者の頭のなかにはなかっただろうしね。

 

・というかこの話をよく10年以上も書いた。作者としては、カズフサとラブやんが意識しだした点で猛烈に絡ませたくなるはず。経済的に連載を続ける的な意味もあるだろうが、なんであれ展開仕掛けたところで無理やりなオチを付けて話をそらしたり、全然関係な話で話数を稼いだり、滅茶苦茶ストレス溜まっただろうなぁと想像して楽しくなる。やっぱり作者としては動き出した関係をどんどん進めたくなるよね。一発ネタってたまに書くのはいいけど、ずっと書いていると摩耗してくるし。

 

・上に関係するんだけど、後半になればなるほど露骨に引き伸ばし話が増えてくる点。もうカズフサとラブやんのフラグが立った時点で、普通に話を書けばどんどん急接近しちゃう。だから、そうしないためにそこと関係ない話がどんどん増えてくる。引き伸ばすために頑張ってるな―と感じられて、それはそれで楽しい。まぁこれ、一気読みしてるから楽しめるのであって、リアルタイムで読んでいたら滅茶苦茶ストレスでしょうね……

もしかして新下駄配列が合わないのかも……?

数カ月前に新下駄配列を練習し始めてはや……何ヶ月だ?

わかりません。

しかし、そんなことはとにかくとして、相当経っていると言っていいと思います。

さすがに新下駄配列の感覚はもう分かっていると言ってもバチは当たらないと思います。

 

うーんうーん……

個人的なことなので、世間一般とは思わないのですが、なんか……個人的には駄目だったのかも。

 

なんで駄目なのか。

もちろん慣れがまだまだでローマ字のように行かないというのはありますが、それはそれ。

一番はリズム感でしょうか。

たしかにローマ字は忙しない。

キーの移動は大きい。

打鍵数は多い。

悪いことだらけです。

でも、なんというか、それだけに頑張っている感があるんです。

手の運動というか、勢い良く入れないとやっていられないというか……

そんな変なリズム感で文章を書いていて楽しく感じていたような気がします。

つまり、文章を書くという行為ではなく、おもにリズムでキーを叩くという行為に快感を見出していた気がしてきたのです。

 

ということで、指がつかれなくて効率的な新型配列はもしかしたら自分には駄目なのかも……とか思う今日このごろ。

同じことを書いていても快感がイマイチなんですよね。

また、様子を見て状況を書いてみたいと思います。

なんで最近小説を書く気がしないのかを考えてみる

最近大変にスランプである。

いちおうちょっとした短編を投稿してみたり、未完成の作品に手を入れたりしていたのだが、やっぱりどうにも乗りきれない。

そりゃだれだって乗れない時があるものだけど、最近は慢性的に乗れていない気がする。

なんでだろう。

ということでちょっと考えてみる。

 

まず、乗っていた時にことを思い出してみよう。

 

 

・思いついたことを作品にするのが面白い

 

まずはこれ。

これがなければ始まらない。

物語という物を作るのが無性に面白かった。

なんでかわからないけど、とにかくそうだった。

ところが今は何故かそうは思えなかったりするのである。

 

 

・自分の中で考えをふくらませることが楽しい

 

作品を作るというのは自分の頭のなかで成長していくアイディアを見守るようなこと。

ふっと浮かんだ小さな物語が膨らんでいくのが楽しい。

今はそれがないし、なかなか膨らまない。

どうも、物語脳がお休みしたがっているらしい。

 

 

・キャラクターたちの会話の広がりが楽しい

 

キャラクターたちを自由に会話させると思いもよらない方向へ広がっていったりする。

自分で考えているはずなのにそうとは思えない飛躍をする時があって、それがとてもワクワクする。

しかし、どうもそれがいまはあんまりない……というのがある。

それから自由に展開させるとだいたい終わりがなくて、そのまま作品として完成しなくて未完成作品としてただ積み上がっていくというのがある。

つまり、これを楽しみたくても、これを楽しむと作品にならなかったりするのだ。

だから段々これをやらなくなる。

そして作品作りのドキドキが減って、つまらなくなっていく。

 

 

・投稿して他人に読んでもらうということが冒険だった

 

かつて作品を人に読んでもらうということはとても怖くてスリリングなことだった。

もちろん今でも非常にドキドキしてストレスがある行為だけど、最初の頃とはだいぶ感じが変わってきた。

最初の頃はどう反応するのか全くわからない所へ自分の作品を放り込むという感じだったが、今はそこそこ反応が読める。

もちろん思いがけない感想とかはあるけど、そこまでとんでもない感想が来ることはまぁない。

最初の頃の冒険感は今はなくなってしまった。

 

 

・つっこむことがなくなった

 

投稿してないものも多いけど、創作の意欲が従来の王道へのツッコミだったりした。

物語ってよくそんな展開するけど実際はそんなわけないじゃん、と言いたくて書いているものが多かった。

でも、いまなろうに投稿されている作品でそういう部分につっこみを入れている作品は多くあって、いまさら自分がツッコミを入れる必要はないというのが現実。

そうすると書きたいネタは当然減ってくる。

 

 

・小説が日常になってしまった

 

かつて自分にとって小説を書くことも読むことも日常を離れる行為だった。

しかし、ここんところ毎日のように考えていたり書こうとしていたせいですっかり日常になってしまった。

つまり、開放感がないわけで。

それじゃ面白く無いよね。

 

  1. とまぁ、こんなことを思った次第。
  2. そうはいっても気が向けばまた書くのだろうけれども、かつてのようにすごい勢いでシコシコ書くことは無くなりそうです。
  3. とはいえ、一番シコシコ書いていた作品は全然未完成で投稿してないので、外から見れば書いていても書いていなくてもおなじに見えると思うけどね(汗;

 

新下駄配列のエミュレーションソフトについて

え~、ここ一週間というもの、具合悪くて半病人していました。

半日だけ会社行ったり、起きててもだるくて……

まわりがインフルエンザばかりなので、自分も感染したかと思いきや、とくに熱も出ず。

人によっては熱が出ないこともあるというので、自分もそのパターンかと思ってよく寝たり休んだりいろいろしていたんですが……

結局、原因は貧血でした。

鉄サプリを飲んでないとダメな人なので毎日飲んでいるのですが、最近変えたサプリがあかんかったらしい。

UHAの鉄グミ……2粒で10mgなので十分かと思いきや全然足りてなかったらしい。

吸収率が悪いのか、実はそんなに入っていなかったのか……

とりあえず別のサプリに変えて、量を増やしたらよくなってきた。

また、自分の胃腸に優しい鉄サプリをさがす終わりのない旅が始まる……orz

 

さて本題。

新下駄配列で文章を打つためには普通のキーボードを別の配列に変換するエミュレーションソフトが必要です。

いままでやまぶきRというフリーソフトを使っていました。

フリーでいろいろカスタマイズ出来て普通に神ソフト。

ただ、ほかにもいろいろソフトがありましてシェアウェアだけど姫踊子草というものがあります。

こちらを試してみたらなんか……反応速度が速い。

キーを押してから実際に文字が出るまでの時間が速いんです。

ということで、登録してお金を払うことにしました。

反応速度を上げたくて少々のお金を払ってもいい人は姫踊子草とか使ってみるといいと思います。

それだけです。

うーん、内容が薄い記事ですねぇ。

うをおおおおお!!! スランプだぁぁぁぁぁ!!!

かけない。

どうやっても書けない。

自分流に言うなら、クリエイティブポイントが足りていない。

気持ちとしては、とても書きたい。

でも、なんにも浮かんでこない。

あるいは浮いてきたイメージがあんまり魅力的じゃなくて、書く気がしない。

集中できない。

 

とにかく創作的に完全にスランプなのです。

 

ということで、ちょっとやり方を変えよう。

日がな時間があればあるだけもんもんと悩んでいるこの状況をやめよう。

一日にポモドーロ法でいうところの1単位の25分だけとにかく書けばそれで良しとしよう。

そういうふうにしないと、もやもやが毎日続くだけでつらい。

 

好きなだけ書けている人が超羨ましいです。

昔そんな時もあって、そんなときは「え、書けないなんて、そんなことありえなくない?」と余裕ぶっていました。

まじでごめんなさい。

冷えると小説とか無理じゃない!?

冬です。

間違いなく冬です。

こういう寒さの中創作できる人は一体どういう人なのだろうか。

ほんとうに不思議でしかたがないんだよね。

 

自分の場合、楽しい気分になってその余裕から湧いてきたものを文章にしている。

なので、寒いとか具合悪いとかほんの少しでも悪いものがあると創作とか出来へんねん。

足冷えるです。

乾燥するです。

冷え性かもです。

新下駄配列の練習中のため、文章を打つのが超遅いです。

 

これじゃかけないよね~……

といういいわけです。

映画は見るより解説を聞くほうが楽しい

新下駄配列の練習のために、また適当になんか書いてみるのだけれども……

 

最近、宇多丸のシネマハスラーとか聞いて楽しんでいるのだけれど、実は自分は映画をあまりみない。

たまには見るんだけど、見て思うのは自分は本当に映画好きではないということ。

映像作品を見て楽しむということはなくはないんだけど、どうしても没入するには時間が必要で、アニメでいう1クールぐらい無いとなかなか乗れない。

(とはいえ、ブレーキングバッドは長すぎて最後まで見れなかったけど」

なんかイマイチな作品も多いしね。

 

そんな自分だけど、映画批評はすごく楽しく聞ける。

最近思うのは、自分は物語というより人が感情豊かに話しているのを聞くのがすごく好きなんじゃないかと。

落語だって、結局は演者が一人で感情豊かに語ることだし。

同じ話だとしても演者が淡々とやっていたら全く面白くない。

シネマハスラーも感情豊かに吠えまくっているから楽しい。

もっとも感情が乗っているのが酷評の時だったりするので、絶賛より酷評回のほうが好みだし。

あの人のけなし方は本当に気持ちいい。

そして、メディアであそこまで堂々と酷評できる神経が羨ましい。

自分も他の作者もそうだけど、アマチュア作家の作品って読者からのツッコミや批判を恐すぎてトンガリをなくしていることが多い。

もっととんがったセリフとか主張をしたくても、来てもいない批判を恐れて丸くしちゃう。

たとえばきついセリフを和らげてしまったり、その世界では当たり前であっても現代では受け入れ難い考え方をものすごくツッコミをいれたりして茶化しちゃったりする。

ちょっとマジになると「いやいやこれギャグですから」とばかりにおどけてしまう。

多分作者はこれを言いたいんだろうということであっても、そんなざま。

まぁ、あんまり作者の主張ばかりガンガン語られる小説もいやだけど、作者がやりたいことが批判を恐れて全然できていない小説なんてつまらないよね。

実際自分もそういうつまらないものばかりなんですが。

 

う~ん、誰の目も気にせずにガンガン言いたいこと書きたいことをオープンに発信できるような人になりたい。

でも批判が来たら凹むだろうなぁ。

なれればなんとかなるものだろうか。

ブログ程度ならほとんど誰も見ていないし、普通コメントなんてつかないから結構自由に書けるけど、人目に触れるなろうじゃなかなか勇気が出ない。

それでもそろそろみんなに忘れ去られつつあると思うので、もっと自由に色々吠えてみたいと思う今日このごろなのです。

大人になると世界のスケール感が変わる

なんかだいそれたことをいいそうだけど、そんなことはない。

すごい小さな話です。

 

小学生・中学生の頃にやったRPGを今更引っ張り出してきて、懐かしさ半分でプレイすることが何度かありました。

その時に感じたのは

 

「あれ? このゲームに出てくる世界ってこんなに小さかったっけ?」

 

ということ。

アサシンクリードのように高画質で超広いゲームに慣れてしまったせいもあるかもしれませんが、なんか昔のイメージと比較して妙に狭く感じます。

例えばゼノギアス。

いろんな町やワールドマップが記憶にも残っていて、「大きな世界の壮大な物語だったよなぁ」というのが印象です。

で、懐古的に思わず結構遊んじゃうと、なんだか違和感がどんどん膨らんできます。

 

「あれ? このダンジョンこんなに狭かったっけ?」

「あれ? ワールドマップにこれしか入れるところなかったっけ? この三倍はスケールあったような……」

「あれ? このイベントこんなにあっさりだっけ? もっと衝撃的だったような気が……」

「あれ? もうこんなところまで来ちゃったの? もっと長い道筋だったような……」

 

とにかくすべてのスケールが記憶の3分の1ぐらいしか内容に感じてしまいます。

なんだこれは、と。

そしてこんなことを思います。

 

「なんか、すごく小さな世界に人が数百人ぐらいしか住んでいなくて、数十人しか住んでいない集落レベルの集団が『この都市はすごいだろう』とか言っているようにしか見えないんですけど。すごいメカが色々出てくるけど、それの基礎になっている工業施設や発電所はどうなってるの? なにもないところからいきなり湧いてきてるとしか思えないんだけど。この世界の設備とスケールじゃこんなもの製造できないよね」

 

そういうところに突っ込むのは無粋ではあるのかもしれないけど、どうにも気になってしまう。

子供の頃はそんなこと全然思わなかったと思うんだけど……

むしろ、「広い、すごい」と喜んでいたぐらいだと思うんだけど……

 

まるで作者の視野が狭すぎて半径50cmぐらいのことしか考えられていないダメな小説を読んだ時のような感覚に陥りました。

なんでだー

 

子供の頃は世界といえば学校くらいで、自分が想像できる世界も狭かった。

だからあんなスケールでも広く感じたし、ゲームに不慣れだったのですべてが新鮮だったのだろう。

それから世界を知らないので「こんなんじゃなりたたないよ」とか「こんな人間はないだろ」とか「いやそれは不可能だろ」みたいなツッコミも湧いてこないので、別に作り物だという意識もわかない。

 

大人になるといくら会社と家の往復がほとんどといえ、さすがに子供の頃よりは知っている世界や普段見る世界も広がる。

じゃないと困る。

すると当然スケールは小さく感じるし、ゲームには慣れているから新鮮さは少ない。

そして現実と比較して「いくらなんでもこれはない」と感じるツッコミポイントをたくさん見つけてしまうので、作り物感がますますひどくなる。

 

ということで、スケールがとっても小さく感じたんじゃないかと。

それにしてもこの感覚は小説も全く同じなんですよね。

小説を読んでいて「なんだこのスケール感のなさは。これで読者が信じて楽しんでくれると本当に思っているのか!?」と憤慨することがよくあるのですが、これが原因かと。

多分そんな小説も自分のスケール感が小さいこどもの頃だったら何の問題もなく楽しめたんでしょう。

 

子どもと大人じゃスケール感が違うのは当たり前ですが、普段それをわかりやすく実感することがないので、昔プレイしたゲームをまたやるというのはその差異を実感するいい機会でした。

いや、ほんとに。

 

 

 

※全然関係ないけど、昔の物語を読むと農民がとなり町に行くことが大イベントのように書かれていて、普段の生活のスケールの小ささとその人たちの世界のスケール感を想像してクラクラした。そんなスケールで暮らしていれば、大人になってもそんなに感覚が変わらないかもしれない。