なんかだいそれたことをいいそうだけど、そんなことはない。
すごい小さな話です。
小学生・中学生の頃にやったRPGを今更引っ張り出してきて、懐かしさ半分でプレイすることが何度かありました。
その時に感じたのは
「あれ? このゲームに出てくる世界ってこんなに小さかったっけ?」
ということ。
アサシンクリードのように高画質で超広いゲームに慣れてしまったせいもあるかもしれませんが、なんか昔のイメージと比較して妙に狭く感じます。
例えばゼノギアス。
いろんな町やワールドマップが記憶にも残っていて、「大きな世界の壮大な物語だったよなぁ」というのが印象です。
で、懐古的に思わず結構遊んじゃうと、なんだか違和感がどんどん膨らんできます。
「あれ? このダンジョンこんなに狭かったっけ?」
「あれ? ワールドマップにこれしか入れるところなかったっけ? この三倍はスケールあったような……」
「あれ? このイベントこんなにあっさりだっけ? もっと衝撃的だったような気が……」
「あれ? もうこんなところまで来ちゃったの? もっと長い道筋だったような……」
とにかくすべてのスケールが記憶の3分の1ぐらいしか内容に感じてしまいます。
なんだこれは、と。
そしてこんなことを思います。
「なんか、すごく小さな世界に人が数百人ぐらいしか住んでいなくて、数十人しか住んでいない集落レベルの集団が『この都市はすごいだろう』とか言っているようにしか見えないんですけど。すごいメカが色々出てくるけど、それの基礎になっている工業施設や発電所はどうなってるの? なにもないところからいきなり湧いてきてるとしか思えないんだけど。この世界の設備とスケールじゃこんなもの製造できないよね」
そういうところに突っ込むのは無粋ではあるのかもしれないけど、どうにも気になってしまう。
子供の頃はそんなこと全然思わなかったと思うんだけど……
むしろ、「広い、すごい」と喜んでいたぐらいだと思うんだけど……
まるで作者の視野が狭すぎて半径50cmぐらいのことしか考えられていないダメな小説を読んだ時のような感覚に陥りました。
なんでだー
子供の頃は世界といえば学校くらいで、自分が想像できる世界も狭かった。
だからあんなスケールでも広く感じたし、ゲームに不慣れだったのですべてが新鮮だったのだろう。
それから世界を知らないので「こんなんじゃなりたたないよ」とか「こんな人間はないだろ」とか「いやそれは不可能だろ」みたいなツッコミも湧いてこないので、別に作り物だという意識もわかない。
大人になるといくら会社と家の往復がほとんどといえ、さすがに子供の頃よりは知っている世界や普段見る世界も広がる。
じゃないと困る。
すると当然スケールは小さく感じるし、ゲームには慣れているから新鮮さは少ない。
そして現実と比較して「いくらなんでもこれはない」と感じるツッコミポイントをたくさん見つけてしまうので、作り物感がますますひどくなる。
ということで、スケールがとっても小さく感じたんじゃないかと。
それにしてもこの感覚は小説も全く同じなんですよね。
小説を読んでいて「なんだこのスケール感のなさは。これで読者が信じて楽しんでくれると本当に思っているのか!?」と憤慨することがよくあるのですが、これが原因かと。
多分そんな小説も自分のスケール感が小さいこどもの頃だったら何の問題もなく楽しめたんでしょう。
子どもと大人じゃスケール感が違うのは当たり前ですが、普段それをわかりやすく実感することがないので、昔プレイしたゲームをまたやるというのはその差異を実感するいい機会でした。
いや、ほんとに。
※全然関係ないけど、昔の物語を読むと農民がとなり町に行くことが大イベントのように書かれていて、普段の生活のスケールの小ささとその人たちの世界のスケール感を想像してクラクラした。そんなスケールで暮らしていれば、大人になってもそんなに感覚が変わらないかもしれない。
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